鳥山明先生のこと

3月8日、漫画家・鳥山明先生が急逝硬膜下血腫のため1日逝去、との報が流れた。

68歳での急逝はにわかに信じがたく、これを書きながらもボーッとしている。

何から書いたらよいのか判らないので、取っ掛かりとしてこの写真を見せる。

1980年10月のサイン。色紙と単行本で日付が違うのは、書き出すまで自分でも忘れてた。

 

鳥山先生が愛知県在住なのは知られていたけど、時節柄、正式な町名は公表されてない。ただ、ぶっちゃけ地元の人は全員知っていて、最寄駅からタクシーに乗って「鳥山さんの家まで」と告げれば運んで行ってもらえる程度には名所化していた。ただしそれはひとしきり有名になって豪邸を構えた後の話。このサインは「Dr.スランプ」連載開始の1980年。

 

「Dr.スランプ」が漫画ファンの間で話題になりだした頃、漫画情報誌の誌上アンケートで鳥山先生、「名古屋の北西の片田舎」的なことを回答されていた。それを読んで、「うちの町だったらスゴいけどなー」とヘラヘラしつつ中学の卒業生名簿を試しに読み返したら、まさかのドンピシャ。小中学校の先輩だった(当時うちの町内に小中は1校ずつしか無かった)。

 

こうなると矢も楯もたまらなくなり、発売間も無い「Dr.スランプ」1・2巻(同時発売だった)と色紙をかかえて見境なく先生のお宅へ。当時のことなのでご勘弁ください。その日はお留守で、お母様に色紙だけお預けして(ホントご勘弁ください)、翌日再び伺うと、鳥山先生ご本人がお出になられ、なんと仕事場にまで上げて頂いたのでした。いやもうマッタク、不適切にもほどがあってごめんなさい。てゆーか、スゴいのは鳥山先生のこの敷居の低さよ!

この時の鳥山先生の髪型が、則巻千兵衛さんそっくりだったのが、強烈な第一印象。

 

当時のお仕事場には、出たばかりの単行本カバーの刷り出し(裁断する前の大きなサイズのままの紙)が天井に貼ってあって、仕事机には近々製作されるというノベルティの目覚まし時計のイラスト。今思うと涙ぐみそうな信じられない空間の中で、なんと15分近くお喋りさせて頂けた。まだ今の仕事と全然接点の無かった頃、一漫画ファンとして最大級の感動。

帰りがけ、単行本にもサインして頂けた。色紙と単行本で日付が違うのはこういうわけ。

 

実はその時の内容、9ヵ月後に大学のサークルの同人誌に残らず書いてて、うーわ我ながらヤベーヤツだこいつと思った。当時の自分のヤバさは置いといて、それ以上に、鳥山先生の対応がホントに素晴らしく、私のよーな者にもフランクに接してくださったことへの感謝は計り知れない。

さらに、私がさくまあきら師匠の門下に入って今の仕事を始めて間も無い頃、さくま師匠のカバン持ちで、鳥山先生の新居にもお伺いさせて頂いている。ただ不思議なもんで、こちらの詳細はほとんど覚えてない。あ、トイレお借りしたことだけ覚えてるな。

「ドラゴンボール」以降は、そんなパーソナルな思い出の入り込む余地も無いほどの世界的作家になられたのは言わずもがな。なので、私の中の鳥山先生の記憶は、ここだけの話「Dr.スランプ」の時代で止まっている。あんまり外で言っちゃダメよ。

そんな中、このCDジャケットのイラストを見つけた時は、めちゃくちゃ嬉しかった。「ああ、まだ町内の中学校の先輩でいてくださってる」って。詳しくは書けないけど、東京を離れる前年、清洲城の近くのお土産売り場で購入したもの。

 

 

鳥山先生、まだまだやり残したことがおありだったかもしれませんが、日本の漫画界を世界に知らしめた偉大な存在としての貢献力、またそれと同じくらい、43年半前の夢のようなひと時、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。

先生の真似して、拙著「完全『名古屋人』マニュアル」のカバーの刷り出し、自分も保管してます。いつか天井に貼ってやろうと思いつつもうすぐ30年。